富本憲吉の植物モチーフについて

カテゴリー: 愉快な知識への誘い |投稿日: 2015年7月17日

三上美和(教員)

はじめに
 富本憲吉(1886-1963)は日本近代を代表する陶芸家の一人であり、色絵磁器の技法で重要無形文化財保持者にも認定され、生前から高い評価を受けた。特に戦後京都で制作された金銀彩の連続模様の作品は、その到達点と評されている。回顧展もたびたび行われ、近年はジャンルにとらわれない多様な工芸制作を行った初期の活動についても再評価が進んでいる。
 
 富本は植物のスケッチを元に多数の作品を手掛けており、自作についての著作も多い。今回それらを植物モチーフという観点から見直したところ、富本と植物との関わりは生涯にわたっており、その創作における中核を成すものであることが改めて感じられた。筆者はかつて富本が色絵磁器研究を始めた背景について、当時の陶磁史研究や鑑賞者の動向と倉敷の実業家大原孫三郎の支援との関わりから検証した。本稿では視点を変え、初期の広範囲な工芸活動と晩年の金銀彩の評価の間に挟まれ、若干注目度の低い東京時代の染付、色絵作品と画巻、著作などから、富本が植物モチーフに込めた思いや作品の魅力を探っていく。富本作品の新たな魅力を発見する一助となれば幸いである。

植物モチーフの意味―自然の一部として
 富本の制作態度を象徴する最も有名な言葉は「模様から模様を造らず」である。これは既成の模様はいかに優れたものであっても模倣しないという決意表明であり、富本の厳しい制作態度を示すものとしてよく知られている。ほぼ同じ意味の言葉を富本は生涯を通じて語っているが、とりわけ初期の文章からは切実さがにじみ出ていて、自身の制作スタイルを模索している様子がうかがわれる。この時中心的なモチーフとなったのが植物だった。
 もっとも富本は模様を「自然から採る」と語っており、植物も自然の中の一つと捉えていた(「春芽ぐむ」『製陶余録』昭森社、1940年)(1)。このような「自然から創意を得る」創作態度は、20世紀初頭のフランスで起こった装飾芸術様式であるアール・ヌーヴォーからの影響が指摘されている(2)。富本は東京美術学校(現東京藝術大学)卒業後イギリスに留学しており、直接ヨーロッパの新しい芸術に触発されることで、その後工芸を絵画や彫刻同様の芸術と見なした先駆的陶芸家の道を切り拓いていくのである。
 富本にこうした創作態度を教えたのがアール・ヌーヴォーであるとすれば、自然に対する愛情を育んだのは、富本が生まれた奈良県生駒郡安堵村(現安堵町)の自然豊かな環境だった。故郷に戻って陶芸家としての活動を開始した富本は、生家近くの風景をモチーフに「大和川急雨」「寂しき辻堂」などの代表的な模様を描き、晩年まで用いている。生家を修復した記念館(3)の敷地内で現在も可憐に咲く「ドクダミ」は、後に移住した東京で富本に故郷を思い出させる大切な花として語られている(「武蔵野雑草譜」)(4)。こうした身近な風景や野草を元に模様を作る富本の創作態度は、生涯を通じて続けられていくことになる。

東京時代の植物モチーフ―写生の楽しさと魅力の発見
 富本の作風はその転居と重ねておおよそ「大和時代(1913―26)」「東京時代(1926―45)」「京都時代」(1946―63)の三期に分けられている。今見てきたとおり身近な自然をモチーフとする大和時代の手法は東京時代も一貫しているが、作風はかなり違っている。
 大和時代の模様は、モチーフを思い切って単純化しざっくりと捉えるというもので、素朴な味わいを特徴とする。一方、東京時代では技法が一段と進歩し、植物モチーフは大和時代の素朴なものから、より明確で洗練されたイメージへと変わっていくのである。
 まず、素地に模様を刻みつけ、そこに青い顔料である呉須を埋めて模様とする「呉須象嵌」の技法に注目したい。この技法の作品では、《染付呉須象嵌絵替り皿》(10枚、京都国立近代美術館蔵、1933年)が代表的である。そこでは「薊」「野葡萄」「秋明菊」「トウモロコシ」などの創作模様が皿の中央にくっきりと描かれている。象嵌された呉須の上から薄い呉須を塗り重ね、墨の滲むような効果を狙った「呉須象嵌」は独特のあたたかみを感じさせるものの、白磁を生かしたモダンな作風には、初期の染付に見るような素朴な印象はない。
 対象を明確に捉えていこうという姿勢は、東京時代に本格的に新たに取り組んだ色絵作品からもうかがわれる。色絵技法は九谷で習得しており、《色絵薊模様角鉢》など九谷焼の色調を生かした色絵磁器もこの時期制作している(5)。
 また《色絵すべりひゆ大鉢》は《色絵薊模様角鉢》と同年の作品だが、こちらは九谷風ではなく、余白を生かした独自のスタイルになっている。可憐なスベリヒユが純白の生地に対照的に配されており、赤い茎、緑の小さな葉が白磁に映えて実に美しい。本作品の出来映えからも、富本が野草と対峙し、その美を克明に描きだそうという意図がうかがわれる。この時期の作品には、富本が感じた植物のみずみずしい美しさと生命力がとりわけ明確に表現されており、ここに東京時代の作品の魅力がある。 
 東京時代、富本は信州の高原に出かけ、《草花図巻》、《鹿澤早春草花巻》(1934年、個人蔵)といった画巻に仕立てている。特に後者にはスケッチした野草の図に解説が加えられていて、この時期の富本が野草に込めた思いを知る手がかりとなる。その中でも「しゃうじゃうばかま」には、「花、朱色にして葉の緑と対応して美しい。花色が袴の色を思はせ その名来たるものか。雪消えて最も早く咲くものと思ふ」(傍線筆者)と書かれ、厳しい寒さを乗り越えた野草の強さに思いをはせている。ここに描かれた植物の中には「名不詳」とされているものもあることから、富本が有名無名を問わず、眼に触れた植物の美しさを描き留めることを何より大切にしていたことがわかる。
 先に引いた「春芽ぐむ」という文章には、東京時代の制作態度をうかがわせる部分がある。風向きの違いや蝦蟇の声といった、東京世田谷の自宅周囲の自然から春の訪れを知るというものである。真っ赤な芽に続いて緑の葉が出る「芦の芽吹き」についての細やかな描写や、「芦の芽を今年も描くのを楽しみにしている」という言葉からは、しばしば作品に登場する「芦の芽模様」が作られた時の富本の感動の一端を知ることができる。
 「春になると周りにモチーフが豊富で楽しい」という一文からは、富本の言葉の中でも良く知られる「模様から模様を造らず」のような構えたところが薄れ、植物を描くことそのものに喜びを見いだしている様子がよく感じられる。 
 先述した「武蔵野雑草譜」は、自宅付近で見かけた草花のスケッチに短い文が添えられたものである。いずれの野草も前掲の図巻と同様、大和時代ほどには簡略化せず、見たままの印象をあっさりしたタッチで描いている。ここで富本は「久しく観察してきた雑草から直接模様を造り、模様から模様を造ることを断然やめてからずいぶん長い年月が流れ去った。」とし、長い習慣によって野外でスケッチしなくては気が済まなくなったことを語っている。
 ドクダミについては先に述べたとおりだが、例えば花の咲いていない「烏瓜」について、「人は花をつけた草木のみに心を惹かれるが、それは間違い」であること、また「へびいちご」では、「武蔵野ではあまりに普通なるがため、その美しさを注意されないのではなかろうか。」と語る。さらに「オンバコ」には、「見たところ貧乏くさく孤独」であるけれど研究したい、という独特のユーモラスなコメントも添えられている。野草でなく敢えて「雑草」と題していることにも、富本のこだわりが感じられる。ともかくこれらの文章から、富本が身近でありふれた野草に心を寄せ、そこに美を見いだしていたこと、そして今まで描かれてこなかったモチーフの新たな魅力を発見しようとしたことは間違いない。

植物モチーフに込めた思い―むすびにかえて
 スベリヒユ(写真参照)を知っている人は、よほど植物に詳しい人だろう。小指の先より小さい葉は、注意しないと見過ごしてしまう。でも、多くの草が枯れる厳冬期にも、地面にへばりつき葉の数を増やす寒さに強い植物でもある。「しゃうじゃうばかま」同様、富本は色や形以上にその強さに惹かれたのだろうか。筆者はある冬の日にスベリヒユを偶然見つけた。そして、この直径数ミリの可憐な葉と赤い茎に目をとめた富本の観察眼に驚かされ、以来富本の植物に込めた意味を改めて考えるようになった。
20150717
 奈良の旧家出身の富本は古陶磁の名品に触れる機会も多く、骨董品に惹かれることをたびたび語っている(「古染付金手付菓子器」『美術新論』5巻8号、1930年)(6)。古くから繰り返された模様の背後に広がる豊かな世界を熟知しているだけに、それに背を向ける困難さにも直面していたはずである。
昔の模様を繰り返さず、模様が作り出された最初まで遡ってみることは、相当手間のかかる試みであるが、これが工芸制作における個性の獲得という困難な課題に対する富本なりの答えだった。そして、その地道な繰り返しから、植物の持つ強い生命力に対する感動も得ていたのだった。
個性の獲得は近代以降の芸術家が向き合わざるを得ない重荷のようなものであるが、先に見たような東京時代の制作からは、それに耐えながら日々身近な野草の写生に喜びを見いだし、こつこつ模様を作っていった富本の姿が浮かび上がってくる。富本が「雑草」と呼ぶ植物モチーフには、富本の創作への強い思いと同時に、身近な植物に対する温かな共感も読み取ることが出来るのである。
                          

(1)『富本憲吉著作集』(辻本勇編、五月書房、1981年、551頁)再録、392ページ。本書は富本の主要な著作を網羅した基本文献。
(2)「日本のアール・ヌーヴォー再考」土田真紀『さまよえる工藝 柳宗悦と近代』草風館、2008年)88ページ。
(3)富本の生家は「富本憲吉記念館」として改修され、初期から晩年までの作品、資料と併せて公開されてきた(近年閉館)。同館は富本の人と芸術の理解に極めて重要な役割を果たしており、従来に近い形での再開が望まれる。
(4)(1)前掲『富本憲吉著作集』407―416ページ。
(5)富本が色絵技法を学んだ背景として同時代の鍋島や柿右衛門といった色絵磁器研究の進捗が指摘されている(樋田豊次郎『工芸 伝統の生産者』美学出版、2004年、拙稿「富本憲吉の初期色絵作品と大原孫三郎の援助について」『東京国立近代美術館 研究紀要』第11号、2007年)。
(6)(1)前掲『富本憲吉著作集』539―540ページ。


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