拈華微笑2016(2):古典(再)訪
池野絢子(教員)
美術作品にも、小説にも、ポップ・ミュージックにも、どんな分野にも「古典」と呼ばれるものがある。研究にも、「古典的名著」なるものが存在していて、その分野を志す人にとっては必読書だ。あるいは、日本人にとっての『源氏物語』のように、ある文化圏の人が共有している「古典」もあるだろう。対象は異なれど、多くの人にとって古典的作品/著作といえば、やはり知っておきたいもの、知っておいて損はないと思われるもの、なのではないだろうか。
それにしても、古典とはなんだろうか。なぜ「知っておきたいもの」なのか。そんな素朴な疑問に、絶妙な返答をくれるのがイタリアの小説家イタロ・カルヴィーノのエッセイ、「なぜ古典を読むのか」である。そこでカルヴィーノは、古典(カルヴィーノが念頭においているのは小説の古典である)の定義を14項目にわたって吟味し、古典とは何か、なぜ私たちは古典的著作を読むのかという問いに向き合っている。「古典」の最初の定義は、次のようなものだ。
「1.古典とは、ふつう、人がそれについて、「いま、読み返しているのですが」とは言っても、「いま、読んでいるところです」とはあまり言わない本である。」
なるほど、古典的作品は、みんな知っているから古典なのであって、いま読んでいます、とはなかなか言えないかもしれない。しかし、この定義は若い人にはあてはまらない、とカルヴィーノも補足している通り、誰にでも通用するものではない。他には、こんな定義もある。
「4.古典とは、最初に読んだときとおなじく、読み返すごとにそれを読むことが発見である書物である。」
この定義は、実感したことのある方もおられるのではないだろうか。私自身の卑近な例を挙げると、いつだったか、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を読んだときのことだ。『ロビンソン・クルーソー』といえば誰しも子供時代に読んだことのある冒険小説であろうが、大人になってから読み返してみると、それがいかに18世紀ヨーロッパの宗教観や植民地主義と結びついたものであるかがわかって驚いた。もっとも、私が捉え損ねた細部もあるだろう。古典とは、そんな風に何度でも読み返し、解釈しなおすことにたえる作品なのである。
ちなみに、私がとりわけ気に入っているカルヴィーノの定義は、13番目のものである。
「13.時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である。同時に、このBGMの喧噪はあくまでも必要なのだ。」
解釈はみなさんにお任せしよう。せっかくの大学生活、一冊二冊でも、みなさんの思いつく「古典的著作」にチャレンジしてみてはどうだろう。それが初読でも、再読であっても構わない。あるいはその区別にさほど違いがない点にこそ、「古典」なるものの魅力があるのだから。
注)カルヴィーノのエッセイは以下に収録されています。
イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』須賀敦子訳、河出文庫、2012年。