愉快な知識への誘い

…本学教員陣による連載記事を不定期で掲載しています。Lo gai saber(愉快な知識)とは、14世紀頃の南仏トゥールーズでの方言(オック語)による文芸活動のこと。私たちもそれに倣って思い思いに「愉快な知識」を披露していきたいと思います。

比企貴之(教員)  京都駅から市営バスに乗り、10分足らずでバス停・博物館三十三間堂前に着く。そこでバスを降車すると京都国立博物館、道路を挟んで反対側には蓮華王院三十三間堂がみえる。蓮華王院は、今日、国宝建築として名高く、本学の学生のうちにも「行ったのは一度や二度ではない」という人も少なくなかろう。

佐藤 真理恵(教員)

イヴリン・ド・モーガン《トロイのヘレネー》(1898年)、ロンドン、ド・モーガン・センター蔵

【図1】イヴリン・ド・モーガン《トロイのヘレネー》(1898年)、ロンドン、ド・モーガン・センター蔵

 「世界三大美女」といえば、わが国に限っては、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町が挙げられることが多い。しかし、より一般的には、小野小町の代わりにヘレネーという女性がランクインしているようだ。  ヘレネーとは、ギリシア神話に登場する、絶世の美女との呼び声高い人物である。それほど有名な麗人であれば、さぞ多くの芸術家が美の化身としての彼女の像を創造し讃美したかと思いきや、意外なことに、とくに美術の分野では、ヘレネー像の数は決して多くない。しかも、美術作品や詩、演劇、映画で描き出された彼女の容貌や人物像は、概ね共通した特徴をそなえており、ヘレネーのイメージは多分に均一化されているといえる。後述するが、ヘレネーには、金髪たなびく絶世の美女にして稀代の悪女、という固定観念が付きまとっているのである。

ボッチョーニの「アトラス」

カテゴリー: KUAブログ愉快な知識への誘い |投稿日:2018年9月25日

池野 絢子(教員)

図1:《若き巫女》の複製図版、掲載誌不明

図1:《若き巫女》の複製図版、掲載誌不明

 20世紀を駆け抜けたイタリア未来派のなかで、実践と理論の両面で一際注目すべき活躍をしながら、従軍中の不慮の事故が原因で早逝した芸術家、ウンベルト・ボッチョーニ(1882–1916)。そのボッチョーニが残した貴重な資料がヴェローナ市立図書館で再発見され、2016年にミラノのレアーレ宮殿、およびロヴェレートの近現代美術館で開かれたボッチョーニ回顧展で初めて一般に紹介された。

池野 絢子(教員) 「黄金のアデーレ」(2015年)という映画をご存知でしょうか。グスタフ・クリムトの描いた《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I》(1907年・図1)という絵画をめぐる物語です。金地の上に美しく着飾った女性が豪華で装飾的な技法で描かれた、クリムトの代表作の一つであり、大変魅力的な絵画なのですが、映画は制作経緯の話でも、クリムトの生涯の話でもありません。そこに描かれた女性アデーレと、その作品の所有者をめぐる物語です。

荒井寛方について

カテゴリー: KUAブログお知らせ愉快な知識への誘い |投稿日:2018年8月10日

三上美和(教員)  みなさん、こんにちは。例年にない厳しい暑さが続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。今回は日本画家荒井寛方(1878-1945)について少し述べてみたいと思います。  みなさんは荒井寛方を御存知でしょうか。明治から昭和にかけて活躍した日本画家で、仏教をテーマに独自の作風を築きました。同時代、寛方と同じく日本画団体である日本美術院で活躍した横山大観、下村観山、菱田春草と比べるともうひとつ知名度が高くないようです。

古典という「根」

カテゴリー: お知らせ愉快な知識への誘い |投稿日:2018年6月9日

佐藤真理恵(教員)  はじめまして。今回はご挨拶代わりに、私の専門分野である西洋古典学(古代ギリシア)と絡めたお話をしたいと思います。  といっても、西洋古典学では主に古代の文献や史料を扱うため、一見、芸術学とは関係がないと思われるかもしれません。しかし、西洋の芸術にふれるとき、好意的にせよ批判的にせよ、そこに古代ギリシアや古代ローマの影響がみとめられない作品などおよそ皆無といっても過言ではありません。この物言いは、欧米の高等教育において長らく権威として君臨してきた(現在ではそれも黄昏を迎えていますが)古典学の思い上がりでしょうか。

池野絢子(教員)

ロヴェレート近現代美術館、2016年

ロヴェレート近現代美術館、2016年

 余計なもののない広々とした空間に、真っ白な壁。そこに絵画が一枚一枚、同じ高さに、適度な間隔を保って掛けられている。ギャラリーや美術館に通う人ならお馴染みの、いわゆる「ホワイト・キューブ」である。

金子典正(教員)  会期が残りわずかとなりましたが、上野の東京国立博物館では「特別展 仁和寺と御室派のみほとけ」が3月11日(日)まで開催されています。ツイッター「芸術学コースのつぶやき」でも少し書きましたが、今回の展覧会は仁和寺の至宝はもちろんのこと、全国の御室派の寺院のみほとけが大集合しており、大変見ごたえのある内容となっています。とりわけ大阪葛井寺千手観音像、兵庫神呪寺如意輪観音像、福井中山寺馬頭観音像など、秘仏として大切に伝えられてきた数々のみほとけが信じられないほど間近でじっくり拝見できることは大変有難い機会です。こうした充実した展覧会をみるたびに、大切なご本尊の出開帳をお許しくださったお寺さま、展覧会開催に至るまでの学芸員さんたちの苦労がひしひしと伝わってきて、改めてものすごいスケールの展覧会だと感じました。 仁和寺と御室派のみほとけ

梅原賢一郎(教員)

2001年9月11日の忌々しい事件の数日後、わたしはある山の頂上にいた。古くから、旧暦の8月1日に、この山の信仰エリアの人たちが、集団で登攀する風習がある。そう、わたしは、「お岩木さん」、本州の北端、津軽の地に〈おわします〉岩木山の頂上にいたのである。もちろん、年に一度の集団登攀の行事(「お山参詣」)に、参加していたのだった。 前日、麓の岩木山神社の広場で、笛や太鼓や鉦の囃子に合わせて、老若男女が、手足を跳ねて、踊っていた。踊り狂っていたといってもいい。とくに、老人の姿が印象的だった。一心不乱に、空が白みはじめるまで、恍惚として、踊り呆けていた。 そして、時折、雲間から、月明かりに照らされて、偉容を見せる「お岩木さん」も圧倒的だった。ああ、あれが、あまたの恵みをもたらす、神がごとき「お岩木さん」……。踊りの囃子に煽られながら、目がとらえた神秘の映像は、脳裏に焼きついて、いまだに離れない。

図1

……、いま、山頂にいる。集団登攀の仲間にまじって、闇のなか、「ご来光」を待っている。いまかいまかと。みなも、思い思いに、石のうえなどに腰をおろし、一様に、太陽の昇ってくるであろう方向に顔をむけている。だが、その日は、東雲の空は曇ったままで、あいにく、「ご来光」を確認することはできなかった。しかし、そんなことよりもなによりも、わたしの内面は不安に押しつぶされそうになりながら、必死に、曖昧な頭脳をめぐらそうとしていた。 あのおぞましい映像を目にした直後から、またどこかで同様のことが起こるのではないか、日本でも、東京でも。世界中が戦争の嵐に巻きこまれるのではないか。わたしは経験したことのない(身に覚えのない)不安に苛まれていた。 そして、同時に、なんだか不思議だった。こうして、ユーラシア大陸の東端の島国の、そのメインランド(本州)の北端の、コニーデ式の美しい山の頂上で、太陽を仰ごうとしている。ここは、なにごともなかったかのように、まったく静かで、人たちは、おなじように幾年もくりかえされたであろうように、「ご来光」を待ちのぞんでいる。 どうして、わたしはここにいるのか。いったい、いることの意味はあるのか。あるとすれば、それはなにか。ここに登ってこれない人はいるのか。登ることを拒絶される人はいるのか。いや、どんな僧衣を纏っていようとも、どんな法衣に包まれていようとも、「お岩木さん」が拒むことはないはずだ。それどころか、「お岩木さん」は歓迎するにちがいない。あてのない想念が八方に飛びちり、わたしの内面は虚しさでいっぱいだった。

図2

わたしは、若い頃から、祭りに魅せられて、全国各地を回っていた。そのなかでも、よく通った祭りの一つに、「遠山の霜月祭り」がある。南信濃の山間の、谷筋を流れる川沿いの、狭隘な土地のあちこちで、12月の初旬、おなじような「お湯の祭り」が執りおこなわれる。宮崎駿の、湯屋が舞台の映画作品、『千と千尋の神隠し』のモデルになったともいわれているが、土地の人たちはそんなことには無頓着で、ただ、伝えられた祭りを、おなじように幾年もくりかえし、おこなっているにすぎない。 ところで、「遠山の霜月祭り」では、全国の一宮をはじめ、津々浦々の神々が招待され、お湯でもって饗応されるわけであるが、もちろん、近隣のインティメートな神霊たちも招集され、お湯が献上される。要するに、お湯でもってあまたの神々を清め、英気を養っていただくのである。ただし、一括して、漠然と、神々にお湯が献上されるのではない。そこのところは、じつに、細やかで、神々の名簿ともいうべき「神名帳」に記載された神の名が読みあげられ、あるいは、歌の詞章のなかに神の名が挿さまれ、一々、丁寧に、神々が招喚される。 さて、9・11の年のことであったか、ちょっとあとの年のことであったか、ある地区の祭りに参加していたときのことである。夜の帳がおりてはじまった祭りもたけなわ、眠い、寒い、煙いで、意識も曖昧になってきたころ、たしかに、聞こえてきた。そう、一通りの神々の名のあとに、仏教者の名もつづいて聞こえてきた。釈迦牟尼仏、弘法大師、伝教大師、法然上人、親鸞上人、道元禅師という具合に。ああ、これが神仏習合ということなのかと一瞬にして納得させられるものがあったが、それも束の間、わたしの想念はさらに遠くへと飛んでいた。ここに、異貌の神々の名があったとしても……と。

祭りのけっして排他的ではない宗教的土壌は、いったい、なにであろうか。なにに由来するのであろうか。考えれば考えるほどわからなくもなるが、考えてみなければならない問題ではある。

図3

文明の哲学を考えるうえで、なおざりにできない出来事を、9・11のほかに、もう一つあげるとすれば、それは、やはり、2011年の3・11であろう。なかでも、人為ではどうすることもできない地震や津波はおくとして、問題は、自然災害が誘発した原発事故である。いったい、人類文明は、作ってはいけないものまで作ってしまったのであろうか。「自然災害でもなく、人災でもなく、文明災である」と、原発事故について述べた哲学者がいたが、はたして、人類文明は、その巨大な廃棄物が、自然環境のなかで容易には循環できないものまで、つまり、作ってはならないものまで、作ってしまったというべきなのであろうか。歯止めのない科学技術の発展がもたらした、核兵器や原子力の問題も、あらためて、考え直さなければならない。

以上のような、突発的なカタストロフ(破局)が引き金となって、考えさせられる問題のことはさておき、わたしは、日頃から、ユーラシア大陸の東端の島国で、以下のようなことを考えていた。

わたしは、若い頃から、ヨーロッパの哲学をいろいろと学んできたが、やがて、次のように考えるようになった。アリストテレスを読んでいても、アウグスティヌスを読んでいても、デカルトを読んでいても、ニーチェを読んでいても、それぞれの哲学の様相はちがうが、彼らが依拠する根本的な論理(ロゴス)は共通しているのではないかと。 第一に、彼らがいう「ある」とはなにか。パルメニデスは「あるものはある、ないものはない」といったといわれるが、彼らにとって、「ある」は百あり、「ない」は零である。つまり、事物は「ある」か「ない」かのどちらかであり、どちらかでないものはないのである。これは、いいようによっては、事物に「ある」か「ない」かを強要することにほかならない。 彼らとはちがって、わたしは、次のように謳う人も知っている。「陽炎に等しいのに、世界が存在する、あるいは存在しない、と固執する人には、迷妄がある」(ナーガールジュナ)と。これは、ものの真相に「ある」とか「ない」とかを割り当てることはできないということである。逆にいえば、「ある」と「ない」とで割り切った途端に、世界は変質してしまうということである。 また、「ある」か「ない」かであれば、当然、〈「ある」かつ「ない」〉は成立しないことになる。しかし、わたしは、そのようなこともおかまいなしに、次のように話す人も知っている。「やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり」(道元)と。 ユーラシア大陸の東端の島国で、わたしが思うことは、ただ、次のことである。なにかものを考えるときに依拠すべき根本的な論理(ロゴス)、いわば、論理(ロゴス)の母胎のようなもの、それは、地球上に、一つしかないのではないということ。だれしもがそれに依拠して思考すべき絶対的な論理(ロゴス)などというものはないということ。すくなくとも、ユーラシア大陸の東端の島国でものを考えるわたしには、依拠すべき根本的な論理(ロゴス)が二重にあるということ。あるいは、多重にあるかもしれないということ。そのことが、標準化(一元化)のいきすぎた地球には、いま、重要ではないかということである。

また、意識というようなものを考えてみよう。ヨーロッパの哲学は、やはり、意識の哲学ということができる。アウグスティヌスの『告白』を読んでいると、神を、神の似姿である自身の内面に、とことん、見いだそうとしていくが、それは、自身の内面の意識化であろうし、その徹底した作業には、ただただ、驚嘆するしかないのである。デカルトのコギト(考える我)は、もちろん、意識に明瞭にとらえられるものであろう。ニーチェが、永劫回帰の思想を開陳し、忌々しい「かつてそうであった」を「そうであったことを欲した」につくりかえようとするとき、それは、比類ない意志の表明であろうが、その意志は、やはり、意識のなかで、遂行されるのであろう。そして、このように、ヨーロッパの哲学が概して意識の哲学であるということも、その依拠すべき「論理(ロゴス)の母胎」に関係しているのだと思われる。 しかし、ユーラシア大陸の東端の島国で、わたしは、むしろ、意識よりも、無意識の哲学のあることを知っている(唯識の哲学など)。そして、たとえば、悪は、アウグスティヌスにとって、人間の自由意志(それはたぶんに意識化されているものであろう)がなすものであったが、きっぱりと、次のように言う人を知っている。「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず、また害せじと思ふとも、百人・千人をころすこともあるべし」(親鸞)と。とりあえずは、悪は、人間の意識の範疇をこえているということであろう。 いずれにしても、すくなくとも、わたしには、依拠すべき「論理(ロゴス)の母胎」が、二重にあるのである。

言葉というものをとりあげてみても、どうであろうか。「初めに言葉があった、そしてその言葉は神とともにあった、そして言葉は神であった」(ヨハネ福音書)と「縁起という真理にあっては、日常の言語活動が止滅している」(ナーガールジュナ)とのあいだには大きな懸隔があるといわなければならない。言葉のメタレヴェルを問いながら、たえず自己撞着に曝されてあるような、言葉の危険な綱渡りともいうべき禅の公案(禅問答)も、もちろん、後者の命脈のなかでしかと息づいているのである。

図4

以上、2018年を迎えての、感懐である。 ぺらぺらとおしゃべりをしつづけるのではなく、いちど、立ちどまって、考えてみてはどうであろうか。そう、考えることを考えてみてはどうであろうか。

加藤志織(教員)

 世界三大美術館の一つに挙げられることもあるエルミタージュ美術館の貴重なコレクションの一部を展示する企画展が、2017年の春から日本を巡回中です。まず3月中旬の東京を皮切りに、7月からは名古屋の愛知県美術館、そして10月からは兵庫県立美術館に移動して現在公開されている。その大エルミタージュ美術館展について紹介します。