梅原賢一郎(芸術学コース教員)
日本の仏教思想の書物のなかで、道元の『正法眼蔵』は、難解中の難解とされているようです。素人はもとより、専門家も「敬して遠ざける」のが一般的かもしれません。
難解とされるときの言い分もいろいろあるようです。一つは、「悟りの境地は凡人ではとても及ばない」という先走った讃歎がしからしめる「難解で当然だ」というやや投げやりな態度がもたらすものということができるかもしれません。一つは、もっと実際的で、字面を追おうとしても追うに追えない(非)論理の抵抗に出遭い、既得の読解法ではもうこれ以上進めないという断念に裏打ちされた「難解」というレッテル付けでありましょう。
金子典正(芸術学コース教員)
そもそも研究というものは孤独な作業です。なので、ときどきやめたくなる、くじけてしまう、長く調べものを続けてもいっこうに答えが見つからない、いいことなんて何もない。もういい。もういやだ! そうなってくると、私はよくふて寝をします。
小林留美(芸術学コース教員)
“辞書によると、「美学」とは美の本質や構造を解明する学問である”。 “辞書によると、「イメージ」は、心の中に思い浮かべる像、心象、姿、形象、とある”。 学部共通専門教育科目「美学概論」で提出されるレポートを読んでいると、その最初の方でこのような一節を目にすることがよくあります。
三上美和(芸術学コース教員)
皆さんこんにちは。暑い夏も始まり、週末ごとにスクーリングにテキスト科目にと忙しくされている頃でしょうか。春からの学習計画通りの方もいればそうでない方もいらっしゃるでしょう。お恥ずかしい話ですが、私はまさに後者で予定通りにことが進んだことは滅多にありません。子供の頃から根気がなく、さらに運動神経も乏しかったため運動会は本当に辛く雨天中止を毎年願っていました(一度もそうなりませんでしたが)。
加藤志織(芸術学コース教員)
「美術史」とはなにか? 自明と思われるこの問いに、みなさんはどのように答えられるでしょうか。おそらく一般的には、美術史とは文字通り美術の歴史を意味し、ある特定の地域で制作されたさまざまな美術作品をなんらかの関係性のもとに分類・整理して時代順に並べたもの、と考えられているのではないでしょうか。じつはわたしも恥ずかしいことに、大学に入るまでは、美術史を天才が生み出した過去の名品をただ時間軸上に置いていく骨董趣味で退屈な学問だと考えていました。
梅原賢一郎(芸術学コース教授)
最近京都を見てまわっている。私なりの京都巡礼のつもりだ。といっても、かならずしも有名な社寺仏閣を訪ねるのではない。拝観料を払って、靴を脱いで、文化財然と薄暗がりにひそむ像や画の数々に目を凝らし、賛嘆をごちながらの探訪ではない。「祭り」にもいくが、見物や見学というのはあたらないだろう。沿道から、「王朝絵巻」の行列に息を呑みことも、山鉾の巡行の絢爛豪華に酔いしれることもない。
水野千依(芸術学コース教員)
そよ吹く風が心地よい新緑の季節、みなさん、いかがおすごしでしょうか。 新入生は、ガイダンスと履修計画を終えて、ようやくテキストと格闘しはじめる頃でしょうか。在学生のかたも、今年こそはと、心新たに課題に取り組んでおられることと思います。学習のペースをつかむまでは誰しも大変ですが、自分なりの環境と時間をつくって、無理のない形で進めていきましょう。
梅原賢一郎(芸術学コース教員)
今年度から『雲母』の芸術学コースのページを一新することにした。 添削や講評をしながら、レポート用紙の上に刻された文字から、これを書いたのはどのような人なのだろうかと、文字を越えて思いをはせるときがある。たとえワープロで書かれたものであっても、きっと、文字がたんなる記号ではなく、血肉といえばいいのか、なにほどかの肉体性を帯びたものとして、目の前に現れているのであろう。そのとき、直に接する機会がどうしても少ない通信教育部ではあるが、遠くして当人と出会っているような気がする。教員の書くものだってそうであろう。そこで、たんなるインフォメーションやアナウンスではなく、自由に書き綴るコラムのようなコーナーを設けることにしたのである。
三上美和(芸術学コース教員)
皆さんこんにちは、教員の三上です。行く先々で桜に迎えられる季節となりましたね。以下、最近見た展示を紹介します。
世田谷美術館のある砧公園の桜はまだつぼみで、満開は会期終了間際になりそうですが、同館で開催中の「岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜」(4月6日まで、岡山県立美術館で4月18日から5月25日まで巡回)では、近代を代表する洋画家岸田劉生を軸に、その父吟香、娘麗子の活動を資料と作品でたどるものです。吟香は日本初の新聞を横浜で創刊し、起業家として活躍する傍ら、同時代の美術家たちとも盛んに交流しており、吟香が激賞した高橋由一《甲冑頭》や、山本芳翠の代表作《裸婦》、小林清親の浮世絵も同展の見所の一つ。劉生についても代表的シリーズである《麗子像》の他、初期の水彩画から晩年の風景画まで展示。さらにこれまでほとんど知られてこなかった麗子について、幼少期から晩年までを作品と資の料で丁寧に紹介。麗子が美術学校入学の夢を娘に託しつつ、明るい油彩画を生涯描き続けていたことなどを知ることができる貴重な機会となりました。
杉﨑貴英(芸術学コース教員)
古都の風景にとけこむ青銅の巨像、鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像、国宝)を訪れたことのある方は多いでしょう。唱歌「鎌倉」にもうたわれるこの「露座の大仏」は、鎌倉のランドマーク的存在です。しかし本書の冒頭で「意外なほどに基本的なことが分かっていないのである」と著者が記すように、また清水眞澄氏の『鎌倉大仏─東国文化の謎』〈有隣新書13〉(有隣堂、1979年)もその書名に題するように、さまざまな謎に包まれています。いつ? 誰が? なぜ? ──それを直接に語る史料は全くないうえに、尊名を釈迦と記していたり、先に完成した木造の大仏と現在の大仏との関係がよくわからなかったり、数少ない史料についてもどう整合的に解釈するかが問題となってきました。