杉崎貴英(本学講師)
今回は日本美術(史)を概説的に扱った本の特集としたいが、この種の本は多いように見えて、実は読者を惹きつけるものが少ないように思えてならない。そこで一人の書き手が各々の史観でものした総論に限り、さしあたり以下を挙げよう。
杉崎貴英(本学講師)
今回は“文庫・新書で読む日本仏教美術史”として以下4冊を紹介したい。
まず、ハンディながらも優れた概説書としてとりあげたいのがこの本。
佐藤守弘(本学講師)
「法隆寺の柱が膨らんでいるのは、ギリシアのエンタシスの影響だ」。この説を聞いたことのある人は少なくないだろう。しかし、建築史学の専門書には、どこを探してもこの説は見あたらない。どうしてだろう、という素朴な疑問から本書は始まる。明治時代に「日本美の至宝」として位置付けられた法隆寺の建築には、さまざまな言説──「法隆寺に投影されてきた夢」と著者は呼ぶ──が重層的に紡ぎ出されてきた。
佐藤守弘(本学講師)
現代に生きる私たちは、普段に大量の視覚的な情報に曝されつづけている。家のなかでは雑誌、テレビ、ヴィデオ、ゲーム、ウェブ。外に出れば街頭の広告、看板、巨大モニターなど。こうした視覚的刺激は、近代以降、加速度的に増え続けている。こうした現実に対して、私たちはどのように対処しているのだろうか? こうした疑問こそがメディアを考えることの出発点にある。
佐藤守弘(本学講師)
本書は、Vision and Visualityという原題の、視覚文化論の基礎的テクストと呼んでもよい論集である。非常に単純化して言えば、〈視覚〉とは、生理的なメカニズムによって「見る」ことを意味し、〈視覚性〉とは社会的・歴史的に構築された「見る技法」のことを指す。ところが近代におけるさまざまな〈視の制度〉は、この二種類の〈見ること〉の差異を隠蔽し、自然化してきた。
佐藤守弘(本学講師)
昭和初期、妙な集団が東京の路上に現れた。建築史家、今和次郎に率いられたこの集団は、自らを〈考現学者〉と名乗っていた。ノートを持ち、道を歩く人の姿をスケッチし、その服装や行動の統計を取る。あるいは、茶碗がどのように欠けるか、割れたガラス窓はどのように修理されるか。彼らの眼は、あてどもなく、都市の表層をくまなく走査しつづける。
佐藤守弘(本学講師)
〈映像作品〉としてではなく、〈行為〉として写真を読み解く。フランスの精神分析家によって書かれた本書は、そういった新しい試みに挑戦したものである。人は、様々な経験を自らの心的な必要を充たすものに加工することによって、いわば経験を〈消化〉している。このプロセスが、心理学でいう〈象徴化〉の過程である。ところが、さまざまな理由によって象徴化されえないものが残る。
佐藤守弘(本学講師)
今回紹介する文献は、1970年から85年批評家、多木浩二による写真論をまとめたものである。彼は、『眼の隠喩──視線の現象学』(青土社、1988年)、『天皇の肖像』(岩波書店、1988年)、『写真の誘惑』(岩波書店、1990年)などで、写真を広い視点から見た独自の批評を展開してきたが、本書はそれらに収められなかったテクストを比較的初期のものを中心にまとめたものである。
佐藤守弘(本学講師)
明治維新の後、さまざまな概念が西洋から輸入された。「美術」という概念もまた、明治期に翻訳されたものの一つである。江戸期までは渾然一体としていたさまざまな視覚文化の制作/受容の現場に、「美術/工芸/工業」というヒエラルキーが導入され、また同時に「美術史」という学問領域も成立した。1880年代のことである。しかし、これは近代の国民国家として生まれ変わろうとしていた明治国家の政策と緊密に結びついたものであった。
佐藤守弘(本学講師)
イギリスの思想家、ジェレミー・ベンサムは〈パノプティコン〉と呼ばれる画期的な監獄を考案した。それは「一望監視装置」と訳されるもので、独房は円形に配置され、看守はその中心にいて全てを見渡すことができる。独房は明るくされ、看守の部屋は暗いので、看守は一方的に囚人を監視し、反対に囚人からは看守の姿は見えない。したがって、看守がいようといまいと、囚人はつねに「監視されている」と感ずる。すなわち、まなざしの内面化である。この監獄をてがかりに、フーコーは近代国家において、規律=訓練が国土の全てにはりめぐらされていくメカニズムを解読する。近代における〈まなざし〉の問題を考える上で避けては通れない視覚文化論の基礎テクストである。
*記事初出:『季報芸術学』No.15(2001年12月発行)