文献案内:日本美術史概説・総論

カテゴリー: 過去サイトの記事 |投稿日: 2004年8月25日

杉崎貴英(本学講師)

 今回は日本美術(史)を概説的に扱った本の特集としたいが、この種の本は多いように見えて、実は読者を惹きつけるものが少ないように思えてならない。そこで一人の書き手が各々の史観でものした総論に限り、さしあたり以下を挙げよう。
 

源豊宗『日本美術の流れ』思索社、1976年 ※品切

 最近逝去された著者は、その一世紀を超える生涯を通じ、数多くの研究を遺された。「日本美術の文学性」など全般的な論考に限っても、著作集第1巻(思文閣出版)の大冊をなしている程である。
 本書は問答によって構成された、原始から戦後までの日本美術の通史。聞き手をつとめた文明史家・上山春平氏が『日本美術を貫くもの─秋草の美学』という別題を提案されたように、藤原時代以降の日本美に通底するものを「情趣主義」とし、それを象徴するモチーフとして「秋草」を挙げ、これを基礎的視点として講話がなされている。
 桃山時代以降の近世絵画に関する論が半分近くを占めるなど、事項や作品の呈示にはいささか偏りが感じられるが、源氏が全時代各分野にわたって遺された膨大な成果を顧みる時、一人の美術史家が獲得した史観の豊かさが思われるのである。
 

田中日佐夫『日本美術の演出者 パトロンの系譜』駸々堂出版、1981年(1990年改訂版)、2,524円(税別)※品切、ISBN: 4-397-50300-1

 パトロンなる存在を、芸術家を経済的に援助する者、と定義するのは簡単である。しかし著者は「演出者」あるいは「もうひとつの創造者」と呼び、その存在の大きさに着眼した。それにより初めてなされた通史の試みが本書である。
 著者は各時代のパトロンを論じつつ、その時代によって異なる姿を浮かび上がらせてゆく。例えば桃山時代には「混乱期の統一者としてのパトロン」を、江戸時代の文人画家には「パトロンと絵師の同一化」を見出す、という具合である。人の活動、人々の関係に焦点を当てた史的叙述は「超作家美術史」の立場をとる源氏とは対照的で、それだけ美の環境が具体的に描き出される。なお巻末の略年表は資料に留まるものではなく、「確認の視点」などといった作業仮説が盛り込まれている。
 日本画を主たる対象とする美術評論家として知られる著者だが、京都で日本史を学び、近江で文化財保護行政に携わった経験に立つ日本美術史全般への論考も数多い。いずれも叙述が魅力的なのは、著者の問題意識が強烈であり、古美術についても、現在の私たちが享受しうるものとして問い続けておられるからに違いない。それは時代的分野的に専門分化されてしまった美術史学界への挑戦でもある。本書もその一環であり、終章の「これからの芸術家とパトロン」の項は、原始から昭和に至る緻密な叙述を受けて現代を撃つ。
 

笠井昌昭『日本文化史 彫刻的世界から絵画的世界へ』ぺりかん社、1987年、2,800円(税別)※品切、ISBN: 4-8315-0398-3

 ところで「日本美とは?」との命題は、「日本文化とは?」という問いにリンクしていよう。それが「わび」「さび」といった言葉で語られることは多い。しかし、ちょっと待って欲しい。そこに史的俯瞰が欠けていることが多くはないだろうか。
 この本は、美術史研究から出発した文化史家である著者が、本書の終章で素描される文化史学の方法によって論じた古代から近世までの研究をまとめ、ひとつの通史としたもの。「絵巻物にあらわれた歴史意識の展開」「金碧障屏画から文人画へ」など美術史的テーマの論考を多く収めるが、それらは決して造形的問題に留まるものではない。その基調となる時代思潮や世界観へと及び、その変化が文化史の課題としてさらに問われるのである。
 副題のもととなった「彫刻的世界と絵画的世界」の節は、日本文化/日本美をめぐる枠組みの捉え直しを迫るが、それはまた、桃山時代に関して論じられた「わび」という語の再検討からもうながされるはずである。著者による『日本の文化』(ぺりかん社)に収める「日本における美意識の展開」をあわせ読むならば、日本美を歴史的に把握するうえで多くの示唆を受けることができよう。
 文化は推移し、美意識も変転してきた。だから“日本美の特質”もつかまえにくいのだろう。いやむしろ、そう簡単にわかってたまるものか、と開き直ってみることこそ、案外と本質に近づく早道のような気がしないでもない。恣意的で都合のよい文化論に振り回されないために、自分なりの史観を手に入れることが、いま必要なのである。

*記事初出:『季報芸術学』No.14(2001年11月発行)


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