今月の一冊:猿渡紀代子『長谷川潔の世界』(上)渡仏前、(中)渡仏後[Ⅰ]、(下)渡仏後[Ⅱ]1996年、1998年、1998年/有隣堂

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日: 2013年9月9日

三上美和(芸術学コース教員)

 長谷川潔(1891 ~ 1980)はフランスで活躍した銅板画の巨匠です。今春開催予定だった「プーシキン美術館展」の中止で急遽「長谷川潔展」が開催されたためご覧になった方もいるかもしれません。

 本書ではこれまで銅板画の前段階とみなされがちだった初期の挿絵作品を詳しく論じた上巻、銅板画家として飛躍した時期の中巻、晩年の深淵な世界に至る下巻までを豊富な文献を駆使して論じられています。

 本書は作品研究の前提となる基本的な事実を丹念に追っていますが、そうした伝記的な内容に留まらず随処に的確なディスクリプションも盛り込まれ、生涯とあわせて代表作も理解できることが最大の特徴でしょう。深遠さを増していく後半生のマニエ―ル・ノワール作品についての検討も貴重です。

 本書によれば長谷川は日本初の大きな回顧展(1980年、京都国立近代美術館)を見ることなく同年パリで亡くなりましたが、最晩年まで日本での自分の評価を気にかけていました。1976年横浜市
長がパリの長谷川を訪ね市の賞状と「金の鍵」を渡したことは、そんな彼を大層喜ばせたそうです。そうした横浜市と長谷川の深い結びつきにより同館が長谷川作品を最も多く所蔵することとなり、本書の生まれる遠因ともなりました。同館と長谷川とのこのような経緯は、美術館と所蔵作品との理想的な在り方としても特筆されます。

 なお、本書の巻末年譜の間違いが「銅板画家 長谷川潔 作品のひみつ」展図録(2006年)で筆者自身により訂正されています。筆者の誠実さあってのことですが、刊行後も内容が更新され続けるユニークな叢書と言えるでしょう。

*記事初出:『雲母』2011年11月号(2011年10月25日発行)


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