拈華微笑2014(2):アルプスの祠たち

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日: 2014年5月26日

水野千依(芸術学コース教員)

 この文章が届くころには新年度も始まり、瑞々しい新緑の季節になっていることでしょう。みなさんは、心新たに今年度の履修計画を立てていらっしゃる時期でしょうか。

 もっとも、研究というのは計画通りにはいかないもの。そのもどかしさは誰しも経験されていることでしょう。私自身もこの数年、調査の機会を逃してきましたが、ようやく去る三月、まだ木々が芽吹きはじめ、寒暖を繰り返しながら春の訪れを待っていた時期に実現することができました。

 いくつかの課題を抱えて複数の都市を周りましたが、なかでも主たるテーマは、アルプス山間のルネサンス期の礼拝堂壁画を調査することでした。本来は、イタリア・ルネサンス美術を専門としていますが、この数年、都市文化とは異なる逸脱や特異性を示す周縁文化に魅了され、呪術的な図像が多いとされるこの地域の調査を続けています。これまでスイスや北イタリアを巡ってきましたが、今回はフランス、ニースが拠点となりました。

 ニースといえば、エメラルドのごとく澄み渡る碧い海のイメージですが、向かったのは山間部。この地域には、高い岸壁上に城壁を築いた「鷹の巣村」が数多く、観光の名所にもなっていますが、海岸を見下ろすこれらの村とも違って、むしろ内陸奥深い山村です。ある村は、一日に一本しかバスの往来がない小村から、さらに徒歩。またある村は、バスの最終停留所となっていたものの、目的とする礼拝堂はそこから道なき道を何キロも歩いてたどり着きます。かつて地中海からサヴォイア公国へと塩を運んだ「塩の道」沿いに佇む小礼拝堂は、行き交う人々の道中だけでなく、海から来る黒死病に対する守護も託されていました。もっとも、今や人の往来もない寂れぶり。かつての賑わいを偲びつつも、目的とする村や礼拝堂の姿も見えぬまま一人で歩を進めている途中は不安だらけ、姿が確認できても近づく道が見つからず泥濘を右往左往して、断念しそうになることもありました。

 こうしてたどり着く礼拝堂の多くは、ファサードもない小祠のごときもの。風雨に晒され、傷みも甚だしいですが、土着の聖人像や特異な図像が多く、よく似た図像でも地方によって解釈が異なり、その差異や変化に意味深さを感じます。芸術というにはあまりに素朴な壁画ですが、巡礼や旅人、土地の農民たちの祈りが今なおひそやかに息づいているのを感じます。遅々とした歩みにならざるをえませんが、大きな美術の流れからはこぼれ落ちるこうした絵画の魅力をいつかまとめられたらと思います。

 研究は一筋縄にはいかないとしても、それも醍醐味。困難さも楽しみつつ、進めていきましょう。
 

ルセラム近郊 ノートル・ダム・ドゥ・ボン・クール礼拝堂

ルセラム近郊 ノートル・ダム・ドゥ・ボン・クール礼拝堂


*記事初出:『雲母』2014年6月号


* コメントは受け付けていません。