スリランカの仏教美術――その重要性と魅力――
金子典正(芸術学コース教員)
仏教美術といえば、まずは仏教発祥の地であるインド各地の遺跡や、あるいは仏教が東漸して敦煌莫高窟などの石窟が数多く造営された中国の仏教美術が広く知られていますが、実はスリランカの各地には世界遺産に登録されている様々な時代の寺院や遺跡、数多くの仏像が伝えられています。今回はスリランカの仏教美術についてご紹介します。
はじめにスリランカの古代史を簡単にふり返っておきましょう。五世紀頃に成立した『マハーヴァンサ(大史)』によると、紀元前六世紀頃にインドから移住したヴィジャヤ王子が建国し、やがて紀元前五世紀頃に北部の街アヌラーダプラが都になったと伝えられます。以後、八世紀頃まで栄え、この時代をアヌラーダプラ時代といいます。
当時の大きな出来事として紀元前3世紀に古代インドのマウリヤ朝のアショーカ王が王子マヒンダをスリランカに遣わしたことによって仏教が伝来しました。さらにマヒンダの妹サンガミッタは釈尊が悟りを開いたブッダガヤの菩提樹の分け木をもたらして移植したと伝えられます。その菩提樹とされるのが現在アヌラーダプラの市内に残るスリーマハー菩提樹です。実は釈尊が悟りを開いたブッダガヤの菩提樹は後世に焼けてしまったため、現在のブッダガヤの菩提樹はこのスリーマハー菩提樹の分け木であることも有名です。
仏舎利もインドから贈られて仏塔(=ダーガバ:スリランカのシンハラ語で「舎利を蔵する場所」)の建立が始まりました。アヌラーダプラ郊外に建つ高さ約十九メートルのトゥーパーラーマ・ダーガバは紀元前3世紀頃に建立された最初の仏塔とされます。またルワンウェリセーヤ大塔は紀元前2世紀頃に創建された直径約七十七メートル、高さ約五十五メートルに及ぶ巨大な仏塔で幾度も改修を経ながらその美しい姿を誇っています。
有名なシギリヤの天女(アプサラス)の壁画は五世紀に一時的に遷都したシギリヤ城塞址の岩山にあります。花や花籠をもつ雲の間から上半身をあらわした二十三体の美しい天女が暈取りの技法で描かれています。インドのアジャンター石窟壁画や南インド美術との関連性が指摘されていますが、スリランカ美術の独自性が認められる古代壁画の傑作です。また、シギリヤの西方に位置するアウカナの巨岩には高さ約十二メートルにおよぶ仏立像が彫られています。後期アヌラーダプラ時代の九世紀頃につくられ、面長の顔、正面性の強い立ち姿、体に密着する衣文表現などに南インドの仏像の影響が看取できます。
十一世紀になるとインドのチョーラ朝がスリランカ北部を支配したために都がアヌラーダプラから南のポロンナールワに移ります。これ以降をポロンナールワ時代と呼び、さらに諸王国時代を経て十六世紀まで中世が続きました。ポロンナールワは仏教都市として栄え、当時の王宮跡、中心部の遺跡群クアドラングル、摩崖仏群が残るガルヴィハーラが見所です。とりわけガルヴィハーラには全長十四メートルのスリランカ最大の涅槃仏があります。隣接して高さ約七メートルのアーナンダ(阿難)の姿とされる立像が彫られており、そのほか二体の仏坐像も残っています。十二世紀に制作されたもので、当時の代表作例として大変重要です。
十五世紀末になるとキャンディ王国が興りました。十六世紀に沿岸部がポルトガルによって支配されますが、キャンディは島の中央に位置したため王国は独立を守りました。当地の寺院では仏歯寺(ダラダー・マーリガーワ寺院)が広く知られており、アヌラーダプラ時代から歴代の王朝によって伝えられた仏歯(釈尊の犬歯)を祀っています。五世紀初め、インド求法の旅の際にアヌラーダプラを訪れた中国僧の法顕も自著『仏国記(法顕伝)』に記しており、由緒ある仏歯であることが分かります。
キャンディの北方に位置するダンブッラには黄金寺院と呼ばれる石窟寺院があります(ダンブッラ石窟寺院)。数多くの仏像や壁画が伝えられており、創建は紀元前一世紀頃に遡ると考えられ、ポロンナールワ時代に大部分が造営され、キャンディ時代まで続けられました。
このようにスリランカには古代から近世にいたるまで、まるで教科書のように各時代の仏教美術が見事に伝えられています。アヌラーダプラ、ポロンナールワ、キャンディを旅することによってスリランカの仏教美術史を学ぶことができます。また、インドの仏像との関係や東南アジア各地の仏像との関係も理解できるようになるでしょう。スリランカの仏教は釈尊の時代の仏教を多くとどめており、パーリ語で書かれた仏教経典も大変有名です。それらの知名度に比べるとスリランカの仏教美術はあまり紹介されることはありませんが、その重要性を知ると興味は尽きません。