拈華微笑2016(4):記憶の方法

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日: 2016年7月25日

田島恵美子(教員)
 日々の学習の中で、ちゃんと勉強したのになかなか記憶として定着しない、読んだ本の内容をよく覚えていないといった経験はないでしょうか。実際、私自身が痛感していることであり、限られた時間で研究を進めていく上で、何度ももどかしい思いをしています。
 そんな中で、参考文献として瞑想や記憶術の本に目を通す機会があり、記憶とその方法について考えさせられるとともに、改めて自身の勉強の方法を見直す機会ともなりました。そのことについて、簡単ですが述べてみたいと思います。

 記憶は古代より知識の中心として重視され、中世においては読書や瞑想の実践的技術として知的な営みの根底をなしていました。このような記憶において目指されるのは、対象の内面化、つまりそれに精通して自分のものとすることであり、それを達成するために、必ず必要とされるのが瞑想でした。ここでいう瞑想とは、内容を反芻、、する(思い出す、繰り返しよく考えるよく味わう)ことで、記憶の保存・再生を行う作業のことであり、読んだものを完全に内面化し自己のものとする過程をいいます。このような瞑想が、学問の全過程を通じて中心となっていました。この消化され内面化された内容を基に、さらなる解釈や考察を広げていくことができるのです。
 そして、もうひとつ記憶において重要なのが、繰り返す、、、、ということです。
 参考としたいのが、16世紀に書かれた瞑想の手引書です。初心者のための瞑想の実践的指南書であり、聖書の内容を瞑想し内面化するためのいわばマニュアル本ですが、ここには、瞑想するにあたり、どんな内容をどのような態度で、どのようなスケジュールで行っていくか、具体的に記されています。簡単に紹介しますと、まず、この瞑想は4週に分かれています。第1週は罪の認知と悔恨、第2週はキリストの救済活動の観想、第3週はキリストの受難の観想、第4週はキリストの復活の観想を行います。瞑想は1回につき1時間、1日に5回―1回目は夜中、2回目は起床後、3回目はミサ祭礼の前か後で昼食の前、4回目は晩課時、5回目は夕食の11時間前―行います。また、1日5回の瞑想のうち3回目と4回目の瞑想では1回目と2回目の、また、1週間では3日目と4日目の瞑想では1日目と2日目の内容を反芻する時間となっています。
 ここで注目したいのが、学んだ内容をその日のうちに反芻する機会が毎日のスケジュールの中に組み込まれ、さらに、数日おいて再度繰り返すようになっている点です。この方法で学習を続ければ、学んだことが半ば自動的に消化され内面化される、このような効果を備えたシステムになっているのです。
 冒頭の問題に戻ると、私の場合、時間がたつと忘れてしまうのは、それが表面的な知識であること、つまり内面化されていないからであり、時間がないことを理由に反芻すること、つまり復習を怠っていたことに改めて気づかされました。文献を読んだ後、授業の後などには、必ず復習の機会を設け内容を反芻する時間をスケジュールの中に複数回組み込むこと、これが実践できるなら、せっかく勉強したのに思い出せない、よく覚えていないといったこともなくなるのではと思います。直接的な時短につながるわけではありませんが、結局は、時間をかけてもひとつひとつ確実に消化していくことが、最も効率的なのかもしれません。
 幸い、通信教育では、ある程度自分のペースで学習や研究を行うことができます。学習がうまくいっていないと感じる時は、今一度スケジュールをみなおし、学習の後に復習の時間を確実にとることで、まずは反芻すること―その日のうちに、さらに数日後に―を習慣化する、小さなことですが、意外にも大きな成果につながるかもしれません。
【参考文献】
イグナチオ・デ・ロヨラ『霊操』門脇佳吉訳・解説、岩波書店、1995
メアリー・カラザース『記憶術と書物 : 中世ヨーロッパの情報文化』
柴田裕之 [ほか] 訳、工作舎、1997
フランセス・A.イエイツ『記憶術』青木信義 [ほか] 訳、水声社、1993


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