拈華微笑2016(5):論文を書く苦しみ
金子典正(教員)
論文、報告書、依頼された原稿など、大学で教員として仕事をしていると文章を書く機会は本当に多い。出来上がった文章をパソコンの画面上で何度も読み返し、さらにプリントアウトして何度も読み返す。推敲を重ねて、誤字脱字はないか、表現はおかしくないか、世に出して恥ずかしくないか、時には余計なことを考え過ぎてしまって原稿がなかなか完成しないこともある。
日頃のスクーリングで皆さんによく話すことだが、わたしが大学院生の頃、40年以上も研究を続けたお世話になった教授が「最近、論文を書くのがようやく楽しくなってきた」と授業中にポロッと言葉をこぼした。それを聞いたとき「この凄い先生ですら論文を書くのが苦しかったのか」と素直に驚いた。さらに聞けば、論文執筆中には必ず机の前の壁に章立てを書いた紙を貼り付け、いま自分が何を書くべきかを確認しながら論文を書き進めるという。その時、先生自身の論文を書く苦しみや工夫を聞いて随分安心した記憶がある。
博士課程に入ってからは、恩師とその大学院の先生の考え方もあり、年に一本は論文を書くことが無言のプレッシャーとして続いた。たった一本でも自分の専門分野で意義のある新しいことを言うのはなかなか難しい。当時は学問的のみならず経済的にも苦しかったという記憶しかない。しかし、歯を食いしばって研究を続けながら書き続け、5・6年が経つと博士論文をまとめるに十分な内容が出来上がった。
そうした研究の出発点は、言うまでもなく学部の卒業論文だった。中国南北朝時代の仙人の図像について自分なりの考えを述べた。いま思い出すと顔から火が出るほど恥ずかしい内容を堂々と書いたが、自分が努力した成果だったので愛着がわき、捨てずに今でも本棚の片隅にある。その後、大学院に入ると紆余曲折あって修士論文は唐招提寺の金亀舎利塔で書いた。卒論の内容は修論に直結しなかったが、その後の研究では卒論の時に調べた内容が大いに役立った。「結局、つながるんだなぁ~」と後になってつくづく感じた。
とりとめのない話を書いてしまったが、12月に卒業研究の提出を予定している方にとって、何らかの応援になれば嬉しい。また、ここ数年の『雲母』8月号には「考え続けること」を掲載してきたので、余裕があればこちらも読んで欲しい。論文を書くことは苦しくて当たり前。しかし、その先には経験した人にしか味わえない世界が待っている。あと少し、最後までがんばれ!