古典という「根」
佐藤真理恵(教員)
はじめまして。今回はご挨拶代わりに、私の専門分野である西洋古典学(古代ギリシア)と絡めたお話をしたいと思います。
といっても、西洋古典学では主に古代の文献や史料を扱うため、一見、芸術学とは関係がないと思われるかもしれません。しかし、西洋の芸術にふれるとき、好意的にせよ批判的にせよ、そこに古代ギリシアや古代ローマの影響がみとめられない作品などおよそ皆無といっても過言ではありません。この物言いは、欧米の高等教育において長らく権威として君臨してきた(現在ではそれも黄昏を迎えていますが)古典学の思い上がりでしょうか。
ただ実際のところ、たとえば西洋美術ひとつとってみても、ルネサンス期やバロック期の作品のみならずコンテンポラリー・アートにおいてすら、キリスト教の物語と並び、古代ギリシア神話を下敷きとした作品が驚くほど多いことに気づくはずです。むろん西洋音楽、バレエ、演劇、オペラ、文学等についても同様です。あるいは、より身近な和製の商品名――そのネーミングが妥当かどうかはさておき――ですら、アポロ(アポロン)、バッカス(ディオニュソス)、オデッセイ(オデュッセイア)、ゼファー(ゼフュロス)など、ギリシア神話に由来する例は枚挙に遑がありません。
いずれにせよ、西洋文化の根底にはギリシア神話や哲学が連綿と流れており、それらの翻案として多くの芸術作品が生み出されてきたといえます。近代ヨーロッパにあっても、主に英国ではグランドツアーという名の「先祖詣で」でギリシアを訪れることが教養人のステータスとされ、あるいはナチズムにおいては遺伝的には直接かかわりのないはずの古代ギリシア人をゲルマン人の「祖先」とみなす説まで提唱されるなど、にわかには理解しがたいほど古代ギリシアは崇拝の的でした。かように、古代ギリシアは西洋文明共通の「根」とされてきました。経済的にはお荷物でしかない現代のギリシアを真っ先にEUに加盟させ、問題山積の今なおこの国を切り棄てかねているのも、ギリシアは西洋の文化的支柱であるという認識がいまだひそかに息づいているからなのかもしれません。
いささか脱線しましたが、芸術とギリシア神話の関係について話を戻しましょう。そもそも「神話」と和訳されているギリシア語「ミュトス」という用語じたいが、元来は「語られたもの」との語義であり、意外かもしれませんが正典や決定版なるものをもたず、さまざまに語り直され、肉付けされながら伝承されてきた物語の集積全体を指すものです。
たとえば、わが国で愛好者の多いギリシア悲劇も、古来語り継がれてきた逸話のある一部に焦点を当て、再解釈・再提示した「神話」の一形態であるといえます。例として、有名なソフォクレスの悲劇『オイディプス王』(前429年初演)は、何世紀にもわたって伝承されてきたオイディプスの一族をめぐる一連の逸話のうち、とある一日に舞台を限定し、彼がいかにして自分の身の上を知ってゆくのかを、丹念な心理描写をもってサスペンスタッチで描き出しています。つまり、「何が」起きたのかという骨子を語る伝承に、それら個々の出来事が「いかに」起きたのかという再解釈=肉付けを施しているわけです。また、「人間とはなにか」の探究を命題とする近代の人文主義にあっては、同じオイディプス神話でも、スフィンクスの謎を解くオイディプスの表象に光が当てられ、この主題を描いた作品が多く見受けられます。あるいは20世紀初頭には、精神分析医のフロイトが、幼児が異性の親に対し愛着を持ついっぽう同性の親に対しては敵意を抱くといった心理的葛藤のことを、オイディプス神話に想を得てエディプス・コンプレックスと命名したことは周知のとおりですが、この時期の前後には、オイディプス神話のなかでも殊に彼と彼の母親との近親相姦的な側面を強調するような美術作品や映画(有名なものではパゾリーニ監督『アポロンの地獄』など)が多数制作されています。このように、ひとつの逸話をめぐっても、時代によってさまざまな解釈がなされ、その表象もおのずと異なってきます。
また、ルネサンスなるものが、まさに古典古代の復興をめざす文芸活動であったことは言うまでもありませんが、そこでもやはり古代ギリシアの神話や哲学の再解釈が活発に試みられました。そして、それら再解釈の片鱗は芸術作品にも見出すことができます。なおルネサンス期の作品にみられる古典の表象については語るべきことが多すぎるため、今回は割愛し別の機会に譲ることにいたします。
ついでに、本サイト名にちなんだ思い出話をひとつ。ギリシアに留学して間もない頃、ロドス島からクレタ島へ船で帰ったことがありました。船旅は運賃が安い代わりに時間がかかります。夜にロドスを出港し、空が白み始める前からコーヒーと煙草を手にデッキでエーゲ海の潮風に吹かれているうちに、やがて東の空と海が薄紫色に染まってきたかと思うや、一面が薔薇色の光に包まれ、ルビーのような太陽が顔を覗かせました。その時、「朝のまだきに生まれ薔薇色の指さす曙の女神が姿を現す…」というホメロス『イリアス』第1歌477行のギリシア語が、思いがけず口をついて出てきました。当時からみて10年近く遡る学部時代に訳も分からず暗唱させられた一節をふと思い出したのです。「薔薇色の指さす」にあたる古典ギリシア語は「ロドダクテュロス」といい、「ロドス(薔薇)」と「ダクテュロス(指)」の合成語です。数時間前まで滞在したロドス島の名の響きと、目の前に広がる薔薇色の光とが共鳴して、記憶の彼方にあったこの一節が呼び起こされたのかもしれません。そして、思わず発せられたこの一節は、これまた薔薇色の波間に溶けてゆきました。いずれにせよ、このひととき、それまで呪文さながら詰め込んだ知識でしかなかった古典語を、その響きと視覚的イメージをもって体感したような気がしました。大袈裟にいえば、知識と感性が相互に受肉しあったわけです。
私のこの経験は、遥か1万年近く前から語り継がれてきた詩句と眼前の風景との邂逅でしたが、このときに沸き起こった感興は、驚きをもって世界を見つめ直すという芸術の根源とも相通ずる部分があるように思います。それはまた、このサイト名であるLo gai saber(愉快な知識)にほかなりません。ところで、Lo gai saberと聞いてまず私が思い起すのは、まさにこの言葉を冠したニーチェの著作”Die fröhliche Wissenschaft”(1882年)です(なおこの書名には、『悦ばしき知』や『華やぐ智慧』他さまざまな邦訳が充てられています)。古典文献学者でもあるニーチェは、この著作の冒頭で、仮象という「あらわれ」にあえて踏みとどまり目を凝らすことが古代ギリシア人の生きる智慧であったと述べています。芸術は仮象の最たる形式ですが、目の前の世界を幾度も新たに発見しなおす契機を与えてくれるものとして、じつに悦ばしき知そのものでありましょう。
以上、迂回しながらではありますが、古典と芸術を絡めたお話をしてまいりました。もちろん、古典を知らなくても生活になんら支障はありません。神話を題材とした芸術作品を観るにしても、描かれている神話の内容を知らずとも「美しい」と感じることはできますし、ともすると先入観なく眺めたときのほうがダイレクトに伝わってくる印象もあることでしょう。しかしながら、古典の絶え間なき再解釈の結晶たる芸術作品を味わううえで、古典の知識は、作品の核心に触れるための、あるいはそこまで大上段に構えなくとも、作品の多彩な面を垣間見るための鍵であることは確かです。作品の襞に分け入ってみることは、想像しただけでも愉快なことではないでしょうか。
使い古された表現ではありますが、地中深くに根ざした樹はやはり広く枝葉を伸ばし、たわわに実をつけることができます。ご自身の研究テーマだけでなく沢山のカリキュラムをこなさねばならぬ中で、古典まではなかなか手が回らないかもしれませんが、洋の東西問わず芸術の「根」にも関心を寄せてみることは、遠回りなようでいて案外無駄ではないように思います。すでに馴染みのある事象も、古典の知識をもってあらためて眺めてみると、きっと別様の表情を見せてくれるはずです。