ボッチョーニの「アトラス」
池野 絢子(教員)
20世紀を駆け抜けたイタリア未来派のなかで、実践と理論の両面で一際注目すべき活躍をしながら、従軍中の不慮の事故が原因で早逝した芸術家、ウンベルト・ボッチョーニ(1882–1916)。そのボッチョーニが残した貴重な資料がヴェローナ市立図書館で再発見され、2016年にミラノのレアーレ宮殿、およびロヴェレートの近現代美術館で開かれたボッチョーニ回顧展で初めて一般に紹介された。
この資料群はもともと、ボッチョーニの姉だったラファエッラ・アメリア・ボッチョーニが、夫の考古学者グイド・ヴァレリアーノ・カッレガーリの関連文庫の一部として、1955年にヴェローナ市立図書館に寄贈したものである。その「再発見」された資料のなかで注目されるのが、三冊のスクラップブックだ。このうち二冊は、1910年から15年にかけて、すなわち、ボッチョーニが未来主義の運動の渦中にあった時期に集められた、未来主義関連の雑誌・新聞記事を貼り合わせたもの。加えて、とりわけ興味いのがもう一冊、1895年から1909年まで――つまり未来派の芸術家になる以前のボッチョーニが、雑誌等に掲載されたさまざまな図像の複製写真を貼り付けて作った、「アトラス(図像集)」である。
この「アトラス」は、見開きで全13頁の台紙に貼り付けられた216の図像群からなり(台紙は個々に独立したものではなく、大きな紙を二つに折って冊子状にしたもので、表裏の両面に図像が貼り付けられている場合もある)、その対象は古代ギリシアの壺絵から、デューラーのエッチング、ラファエッロ、16世紀のグロテスク装飾、セガンティーニやプレヴィアーティら近代の分割主義者たち、果ては絵葉書や切手にまで、多岐に及ぶ。これらの図像の出典に関しては、ヴェローナ市立図書館館長のアゴスティーノ・コントと2016年の展覧会の共同監修者フランチェスカ・ロッシによって詳細な同定作業が行われ、昨年その全容を伝えるカタログが出版された。ただし、「アトラス」は当初ばらばらになった状態で発見されたため、図像の配置はページの痕跡をもとに再構築されたものであることを付言しておく(残念ながらこの記事では図版を紹介できないが、出版社スカルペンディの公式サイトhttp://www.scalpendieditore.eu/it/eventi/umberto-boccioni-atlasでそのいくつかを参照することができる)。
「アトラス」は、一般的に知られている前衛芸術家ボッチョーニのイメージを裏切るものだろう。いくつかの図像については、未来主義時代の作品のイメージソースとなった可能性が指摘されているし、個人的には、複数のページに登場する浅浮き彫りへの関心が、後のボッチョーニの彫刻家としての志向を予感しているようでとりわけ興味深い。とはいえ、全体としては、未来主義の運動に身を投じる前の、象徴主義に深く影響されていた頃の若きボッチョーニを偲ばせるものである。
インターネットが普及し、いつでも気軽に古今東西の図像を手に入れることのできる今日とは異なり、20世紀初頭の芸術家にとって、書物や雑誌に掲載される複製図版は、制作においてとても重要なものだった。ボッチョーニがこのような図像を収集していたことは、日記や手紙資料からもすでに裏付けられている。今後、これらの図像と初期ボッチョーニの絵画についての研究が進展することが予想される一方で、ボッチョーニが「アトラス」を制作したという、その行為の持つ意味もまた、問われなければならないだろう。ドイツの美術史家アビ・ヴァールブルクが晩年に制作した名高い図像集「ムネモシュネ・アトラス」――もちろん、ボッチョーニのスクラップブックが「アトラス」と名付けられたのもまた、ヴァールブルクのそれに負っている――はルネサンスから近代にいたるまでの複数の時代の図像の身振り表現のなかに、古代の残存を認めようとする壮大な試みであった。それに比べるなら、ボッチョーニのそれは、ページごとに時代や様式、主題といった大まかな分類がなされており、むしろプライヴェートな視覚的日記というような性格のものであったのかもしれない。ロッシは「アトラス」に掲載された大部分の図版が、1909年までに集められ、その後現在の形態に配置されたのだろうと推測しているが、一枚の紙の上に図像を配置するとき、そこには何かしらのボッチョーニの意図が、あるいはまた、無意識が働いていたのではないだろうか。
その意味で印象的なのは「アトラス」の最後に登場する古代彫刻の複製写真である(図1)。《若き巫女》とキャプションの付されたこの写真の被写体は、1878年にローマの南にある港町アンツィオで再発見され、当時はプラクシテレスからリュシッポスの周辺の芸術家に帰されるギリシア彫刻の佳品と見なされていた。イタリア政府は、この彫刻を購入するために所有者と長きにわたる交渉を続け、漸く1907年にローマ国立博物館に迎え入れることになったのである。出典となった雑誌は特定されていないものの、恐らくはローマ国立博物館の購入を伝える雑誌記事のいずれかに掲載されたものであろうと推測される(なお、この彫像は現在も同博物館に収蔵されており、《アンツィオの乙女》(紀元前3世紀頃)という名前で呼ばれている)。
彫像の女性は、左肩にマントをたくし上げ、左手に持った盆を俯きがちに眺めている。盆の上に月桂樹の枝と巻物が置かれているため、儀式のための道具を持った巫女であろうと考えられているが、白黒の複製写真で見たときには、とくにその衣服の襞の繊細な、しかしくっきりとした陰影が目につく。この複製は、ボッチョーニの「アトラス」中で唯一単体で登場し、ページの中央部に貼り付けらていることからして、恐らく当時の彼にとって特別なものだったのだろう。実際、ロッシが指摘するように、この古代彫刻の面影は、1910年に制作されることになる《三人の女性》(図2)に認めることができるように思われる。《三人の女性》は、白く長い衣装に身を包んだ三人の女性が、室内に佇む姿を捉えた作品である。恐らくは伝統的な「三美神」の主題を踏まえたものであろうが、モデルとなった女性はいずれもボッチョーニにとって身近な女性で、画面向かって左手がボッチョーニの母チェチリア、右手にいるのが姉のアメリア、そして中央に描かれているのがボッチョーニの愛したモデルのイネスである。分割主義の技法によって外部から室内へと差し込む光が、溢れるような色彩の点と線によって表現される一方で、とくにアメリアとイネスの衣服、それにアメリアの右手から母親チェチリアの方向へと走る、不自然なほど強い白と赤の線が眼を引く。まるで衣服の襞を延長するかのようなその光の効果は、やがて未来主義者ボッチョーニが練りあげていくことになる、対象と環境との相互浸透の理論を、萌芽的に体現しているかのようだ。
未来派の主導者マリネッティによって、のちに「印象主義を超える一番最初の試み」と称賛されたこの《三人の女性》に古代ギリシアの彫刻の残響を読み取ることは、しかし、それほど強引な考えでもないように私には思われる。ボッチョーニは、1914年に出版した著作『未来派絵画と彫刻(造形的ダイナミズム)』のなかで、芸術の歴史を四つの段階に分類し、その第四段階「未来派的造形の抽象化」にあって、未来主義を、印象主義によってもたらされた新しい造形的価値を受け継ぎ、それを進化させるものとして定義していた。光と色彩に形態を与えた印象主義から引き出される新しい価値とは「雰囲気」であり、未来主義はそこから一歩進んで、「物質をその動きへと翻訳することで、それに命を与える」というのである。
このような歴史認識を「アトラス」から直接読み取ることは難しい。しかしながら、彼が思考していた現代へと至る芸術の歴史とは、恐らくはこうした図像の収集と分類、分析という実践があって初めて可能になったものだっただろう。分割主義と未来主義の共存する《三人の女性》は、19世紀と20世紀の芸術の分水嶺を象徴的に指し示すと同時に、古代以来の西洋の図像の記憶を内包してもいるのである。あれほど伝統の破壊と過去の忘却を声高に謳った未来主義を代表する芸術家が、実は、複製写真を通して過去の図像群と対峙するなかで自らの思想を育んでいったという事実の持つ意味を、いま一度、考える必要があるように思われる。
参考文献:
Umberto Boccioni. Atlas, Agostino Contò e Francesca Rossi, a cura di, Milano: Scalpendi, 2016.
Umberto Boccioni: Genio e Memoria, Francesca Rossi, a cura di, Milano: Electa, 2016.
Boccioni, Umberto, Pittura scultura futuriste: dinamismo plastico, Milano: Edizioni futuriste di Poesia, 1914.
Boccioni, Umberto, Scritti sull’arte, Milano-Udine: Mimesis Edizioni, 2011.