「息づく幻/分身」の回帰をめぐって
佐藤真理恵(芸術学コース教員)
かすかに秋の虫の音が聞こえてきたとはいえ、いまだ残暑厳しいみぎり、皆様いかがお過ごしでしょうか。
長引く悪疫蔓延により、この夏は各地の祭や行事が軒並み中止となりましたね。ここ京都でも静かな夏でした。また、皆さんやお身内のなかにはお盆でも帰省を見送った方が多かったことと思います。このように、親しい人にも逢えない状況が長らく続いています。
この状況下、人との接触を避けつつコミュニケーションをとる手段として、テレビ電話、リモート会議やリモート飲み会、オンライン授業などが活用されてきました。これらのツールを使ってみると、どんなに離れていようと、実際の対面に遜色ないほどの臨場感を味わうことができるため、働き方・人付き合い・学び方の可能性が格段に拡がったのは確かです。しかし、同時に、従来型の「対面」の意義もまた浮き彫りになってきたように思われます。
紀元前4世紀ギリシアのクセノフォンは、『饗宴』のなかで、師であるソクラテスの言葉を以下のように記しています。「彼の似姿は彼を切望する念を吹き込みこそすれ悦びをもたらさないのに対し、実物の彼の外観は、誰かを悦ばせる力をもっている」(4. 22)。この言には、心象であれ造形作品であれ、その姿がいかに彼に似ていようと――あるいは、まさに似ているがゆえに――、実際の彼の不在をいっそう強く感じさせ、彼への思いを掻き立ててしまうという逆説を読み取ることができるでしょう。ここで似姿は、代替物として機能するとはいえ、所詮は実物に劣るものとして捉えられているようです。
その場に不在の者を代替するものとしての似姿については、古来よりしばしば言及されてきました。なかでも、プリニウス『博物誌』(77年)に収められた、いわゆる「ブタデスの娘の逸話」は、肖像の起源を物語るエピソードのひとつとして繰り返し参照されてきました。その逸話の一部を以下に抜粋してみましょう。
「コリントスの町シキオンの陶工であるブタデスによって、粘土で肖像をかたどる土製作品が発明された。その発明は彼の愛娘のおかげであった。彼の娘は、ある青年に恋焦がれていた。その青年がいよいよ外国へ発とうという時、彼女は、ランプの灯りによって投射されたその青年の顔の輪郭を壁の上になぞった。彼女の父は、これに粘土を押し当てて一種の浮き彫りを制作した。そして彼はそれを他の陶器類とともに火にあてて固めた」(35巻43節)。
つとに指摘されているように、ここで、「外国へ発つ」という表現は戦地へ赴くことを暗示しています。あるいはそうでなくとも、ブタデスの娘が思いを寄せるこの青年はいつ帰るともわからぬ遠い地へ発つのであり、今生の別れとなる可能性もあります。そのような局面で、彼女は壁に映し出された彼の顔の輪郭をトレースした。すなわち、文字通り、面影を描き留めたわけです。これだけでもすでにある意味では青年の「肖像画」たりえるのでしょうが、陶工である彼女の父は、さらにこの「肖像画」に手を加え、三次元の「肖像」をこしらえました。ブタデスがそのような加工をした訳は知る由もありませんが、悲しむ娘へのせめてもの慰めにと考えたのかもしれません。
いずれにせよ、ブタデスの娘がとった行為からも、似姿は不在(になるはず)の者の代替物、ないし実在の痕跡であることがうかがえます。
ところで、先述のクセノフォン『饗宴』からの引用の「似姿」には、古典ギリシア語のエイドーロンという語が用いられています。この語は、「像、影像、幻像」等をさしますが、概して実体を欠く虚像といった意味合いで用いられているようです。ちなみに、この語は、アイドル(偶像)の語源にあたります。
いっぽう、同様に「像」をさす古典ギリシア語のひとつに、エイコーンという用語があります。こちらはアイコン(図像、記号、偶像等)の語源であることからも推察できるとおり、像は像でも、モデルとそれを模写した像のあいだにひときわ確固とした類似性がみとめられるような特性を有しています。換言すれば、実体とその像が直結しているのです。
たとえば、エイコーンに由来する東方正教会のイコン画(聖像)においては、キリストや聖母、聖人らが描かれたイコンそのものが、まさに聖なるものとして扱われています。私は留学中、聖堂を埋め尽くすイコンを撮影しようとしたところ、「聖なるものにカメラを向けるなど不敬だ」とギリシア人の若い友人に制止されました。この一件で、彼らにとってイコンはたんなる像ではなく聖なる存在そのものであることを実感した次第です。
あるいは、多少趣は違えど、われわれが日常的に接しているPCやスマホ画面上のアイコンなども、一見ただの画像や記号ですが、それに触れるや、アイコンに結び付けられたコンテンツに直にアクセスできるという意味では、エイコーンの特性を継承しているように思われます。
このように、エイコーンは、「実体」とその像のあいだに同一性を担保するもの、あるいは両者を媒介するものであるといえましょう。
さて、今日、われわれの周囲には「イメージ=像」が溢れています。古代はもとより従来の造形物や再現表象に類するもののみならず、ヴァーチャルな像をはじめじつに多様なイメージに囲まれて生活していますね。写真技術の発明により、像はより「リアルな」ものとなりました。たとえばテレビ電話やリモート会議の画面に映し出される人物は、しごく当然のように、画面の向こうにいる者とほとんど同一であると認識されているはずです。よもやそれが偽物や紛い物だと疑うことすらないほどに、実在する人物とその映像は等価のものとして扱われているのではないでしょうか。いまや像は、虚像や幻影ではなく、実際に存在する、いわば「息づく幻/分身」としての地位を得ているといえます。
こうした、テクノロジーの発展による「リアルな」映像には、遠くにいる人があたかも眼前に存在しているような感覚をおぼえます。ましてや、ほぼタイムラグも無しに音声や動きまで伴っているのですから。類似性の点でブタデスおよびその娘が象った肖像が及ぶべくもないこの「生き写し」の像は、代替物としての役割を十二分に果たしうるように思われます。
しかしながら、前期に他大学でオンライン授業を行ったところ、興味深い事象がみられました。オンデマンド型のみならずライブ形式の遠隔授業でも、映像や音声のリアルさや臨場感に加え安全性や利便性が高いにもかかわらず、意外にも対面授業を望む声が受講生から多く聞かれたのです。もちろん、こちらがもっと工夫すればそのような要望も出なかったのかもしれませんが、面白い授業だからこそ対面で受講したかったという有難い意見も寄せられました(きっと学生が気を遣ってくれたのでしょうけれど)。ともあれ、こうした声に接し、先のクセノフォンの引用でご紹介した、似ているがゆえに不在が強調され哀惜の念を掻き立ててしまうという、似姿のパラドクスを想起したわけです。これらの事例に鑑みると、どうやら、再現性や臨場感の高さをもってしても代えられぬ対面の価値というものもありそうです。
またリモート会議についても、利便性が高いもののなぜか疲労感が大きい、という声をよく耳にします。もしかすると、われわれが十全な伝達を可能とする範囲は思いのほか狭く、まだ身体的な感覚の及ぶ範疇にとどまっているのかもしれません。目下、遠隔コミュニケーションは、こうした感覚の領域を少しばかり越え出ているような気がします。
かように、遠隔コミュニケーションを余儀なくされたこの数ヶ月は、空間を共有すること、熱や振動などを含めた雰囲気が感じられること、触れられる距離にあるということの意義を再認識するよい機会となりました。それはとりもなおさず、私がこれまでぼんやりと考えてきたイメージや身体感覚について再考する契機でもあります。なにかと暗澹たる気分になりがちな昨今ではありますが、これらの経験を奇貨とし、今後の研究や教育に活かしていかねば、と自身を鼓舞しているこの頃です。
最後に、皆さんへ。対面授業の再開を心待ちにしつつ、自習時間をたっぷりとれる今のうちに、テキスト科目を履修なさることをおすすめいたします!