聖像を見る/観る
水野千依(芸術学コース教授)
春まだ浅い季節に久しぶりに海外調査に出かけた。そのなかで、ルネサンス期に国際的な規模で巡礼を集めたフィレンツェのある聖堂に立ち寄る機会があった。そこには、数々の奇跡を起こしたことで名高い聖母像が存在する。十五世紀には人々の信心を高めるために聖像の展覧が制限され、以後、壮麗な壁龕のなかに隠されてきた。代わってこの聖母の図像を下敷きにした複製が数々の聖堂の壁や板絵に描かれ、さらに、信者たちが納めた奉納用の蠟細工や等身大人形が所狭しと積み上げられ、不可視の領域に身を潜めた聖母像の力や威厳を顕在化させていたことが知られている。
ところが、どうだろう。わたしが訪れた午前遅めの時刻にはミサも終わり、当の聖母像は覆われることなく数々の明りに照らされて人目に晒されていた。今やフィレンツェの聖堂の多くは美術館と化し、観光客のカメラさえ拒むことなく展覧され、カメラのシャッター音とガイドの説明の声が各所で響く空間となっている。この十数年ほどのあいだに、こうした傾向はいっそう加速しているように思われる。この聖堂でも、聖母像を祀る礼拝堂の傍らで、司祭が日本人観光客の集団と写真を撮り合っている様だ。
そのような光景にいささか興ざめしていたときだ。まだ若い一人の女性が聖母像の前で祈りはじめた。最初は壁龕の入口に跪いて熱心に祈りを捧げていたが、その後、立ち上がって十字を切り、次に跪き、地面に接吻するという身振りを何度も繰り返しはじめた。中世に聖ドメニクスが行ったという九つの祈禱法のなかでも、跪く姿勢と立つ姿勢を繰り返すことで神に執りなしを祈る方法が紹介されているが、まさにこうした崇敬のコレグラフィが自分の目の前で演じられるとは。そのことに気づいて目を奪われていると、女性は、かなりの時間つづいた身振りの反復のなかでしだいに精神的に高揚していったようだ。とうとう壁龕のなかに歩みはじめ、奇跡を起こす聖母像の前で一心に祈りを捧げながら、ついにはその御顔に手を伸ばし、ふれた。
かつて厳重に遠ざけられ見ることさえかなわなかった奇跡像にふれるとは――。
いくら聖堂が美術館化しようとも、礼拝像は展覧されこそすれ、近づいてふれることは許されない。もとより美術館という空間でも、作品にふれることは禁じられている。その禁忌を難なく超えていく揺るぎない信仰の身振りを前に、心打たれた。彼女の目はもはや閉ざされていた。手に聖母の力を感じたのかもしれないが、その像を目で拝むというより、祈りに埋没していた。開示された像を前に開かれたわたしの目には、何も見えない――そう感じざるをえない瞬間だった。
*記事初出:水野千依『キリストの顔――イメージ人類学序説』(2014年6月、筑摩選書)のあとがきより