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…「Lo Gai Saber|愉快な知識」は、京都芸術大学芸術学部通信教育部の「芸術学コース研究室」 が運営しています。芸術学について学ぶ学生の皆さんに向け、学習に役立つ様々な情報を発信しています。

佐藤真理恵(教員)

京都ギリシアローマ美術館外観

京都ギリシアローマ美術館外観

 日本で、しかも京都で古代ギリシア・ローマの美術作品を鑑賞できることをご存じだろうか。洛北は北山の閑静な住宅街のなかにひっそりと佇む、その名も「京都ギリシアローマ美術館」は、日本で唯一の古代地中海美術コレクションを擁する私設美術館である。ややもすると見落として通り過ぎてしまいそうなほど館が奥まっているうえ、きょうびHPももたず発信される情報が限られていることからも、しばしば隠れ家と称されるこの珍しい美術館について、ここで少し紹介してみたい。

「大嘗祭」雑感

カテゴリー: コースサイト記事愉快な知識への誘い |投稿日:2019年7月20日

梅原賢一郎(教員)  5月1日をもって元号がかわり、10月22日には新天皇の「即位の礼」が、11月14日には「大嘗祭」がとりおこなわれることになっている。皇位の継承を国の内外に示す、国事行為(内閣の助言と承認を必要とする)である「即位の礼」とはちがって、皇室の行事とされる「大嘗祭」は、衆目にさらされることはなく、秘事とされ、行事の真相はなお謎につつまれている。そして(それだからこそ)、おおくの研究者が、あるいは文献に基づいて、あるいはフィールドワークの見地から、抑制的に、ときには、想像たくましく、それぞれの「大嘗祭」論を発表していることはよくしられている。とりわけ、践祚の年の前後には、「論」があまた出版されるであろう。平成天皇のときもそうであった。  いろいろな「論」を読んで、思うところがある。

この秋は正倉院北倉の宝物に注目!

カテゴリー: 美術館・展覧会情報 |投稿日:2019年6月9日

金子 典正(教員)  皆さん、こんにちは。金子です。あっという間に6月となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。今月が終われば一年の半分が終わってしまいます。本当に早いですね。さて、今年は年が明けてから新天皇の御即位を記念して全国各地の寺社仏閣で様々な特別公開が行われていますが、先月の今年の奈良国立博物館の正倉院展の発表にあわせて、東京でも正倉院宝物をみることができる「御即位記念特別展 正倉院の世界 皇室がまもり伝えた美」が東京国立博物館で10月14日(月)~11月24日(日)に開催されることが報道されました。奈良国立博物館と東京国立博物館で正倉院宝物を同時に展示するのは初めてのことで、さらに今回の御即位を記念して、いずれも超有名な宝物が久しぶりにお披露目されます。

池野絢子(教員)

図1:ジーノ・セヴェリーニ《母性》1916年、カンヴァスに油彩、92×65cm、エトルリア美術館、コルトーナ

図1:ジーノ・セヴェリーニ《母性》1916年、カンヴァスに油彩、92×65cm、エトルリア美術館、コルトーナ

 第一次世界大戦の前後から第二次世界大戦が始まるまでの戦間期、ヨーロッパの前衛芸術家たちの多くが、それまでの前衛的な画風を捨てて「古典性」や「伝統」の重要性を説き始める。作家のジャン・コクトーの著作に因んで、一般に「秩序への回帰」と呼ばれるこの傾向は、大戦によって生じた破壊と混乱のなかから、再び秩序を取り戻そうとした芸術上の動きであると理解されている。

「身近なバリアフリー」

カテゴリー: コースサイト記事 |投稿日:2019年3月15日

三上美和(教員)  みなさん、こんにちは。お変わりございませんか。芸術学コースの三上です。寒さの厳しかった2月も終わり、梅がほころび、心地よい風にも春を感じる季節を迎えました。 スクリーンショット 2019-03-15 20.57.22  いきなり私事で恐縮ですが、半年ほど前、足腰に不調を感じて整形外科にかかったところ、あっさり病名がつき「腰痛持ち」になりました。今のところ運動療法と生活改善が有効であり、荷物が1キロ増えるごとに股関節には5倍(つまり5キロ)の負担になると言われ、いつも背負っていた重いリュックを点検。財布などの最低限のものに絞り、それでもなんとなく重量感のあるリュックを乗せるキャリー・バッグを探し、一見すると出張のようなスタイルで外出することになりました。

加藤志織(教員)

ルーヴル美術館展

ルーヴル美術館展

 大阪市立美術館において1月14日まで公開されていたルーヴル美術館展を見てきた。この企画展では、ルーヴル所蔵の肖像芸術に焦点が絞られ、時代も地域もさまざまな絵画・彫刻・装身具が、それらの制作目的ごとに分けて展示されていた。

【芸術学コース】特別講義のお知らせ

カテゴリー: お知らせ |投稿日:2019年1月23日

 

爆心地・長崎の彫刻–被爆聖人像、平和祈念像、母子像

長崎市の爆心地一帯に現存する彫刻群からもうひとつの日本近代彫刻史を捉えようとすること、これが本講義のテーマです。長崎は江戸時代に西洋彫刻の石膏像が輸入された場所であり、戦後には平和公園に《平和祈念像》などの大型彫刻が複数置かれるなど、彫刻と深い関わりを持っています。私はこれまで、戦後日本の彫刻にとって長崎はもっとも重要な場所と位置づけられるのではないか、長崎の彫刻群には人間にとって彫刻とは何かという問いの手がかりがあるのではないかと考え、作品制作と調査研究に取り組んできました。本講義では、そういった少し大きな問いについても、皆さんとともに考える機会になればと思っています。現在、長崎市松山町の爆心地一帯は平和公園となっています。長崎の平和のシンボルでもある北村西望作《平和祈念像》はここに1955年に設置されました。《平和祈念像》のまわりには世界各国から贈られた平和の像が並びます。そして1997年には、北村西望の助手でもあった富永直樹作《母子像》が設置されました。いっぽう、平和公園からほど近い浦上天主堂には、原爆の炸裂によって頭部を失った立像と、反対に首だけになったたくさんの聖人像が保存されています。このような異なる来歴を持つ彫刻であふれた爆心地・長崎は、いったい何を示しているのでしょうか。1980年代後半から90年代にかけて構想されるも実現することはなかった「平和公園再整備計画」や、90年代後半から2000年代前半まで続いた「母子像裁判」などの、これまで十分に光が当たることがなかった資料と併せて検討します。

nagasaki1 北村西望《平和祈念像》(1955年) [撮影:小田原のどか]

講師:小田原のどか 演題:「爆心地・長崎の彫刻–被爆聖人像、平和祈念像、母子像」について 日時:2019年2月2日(土)14:00~16:00 会場:京都造形芸術大学 東京外苑キャンパス 教室は当日の掲示にてご確認ください。

※事前申込不要。参加無料。芸術学コース以外の方・一般の方どなたでもご参加いただけます。

比企貴之(教員)  京都駅から市営バスに乗り、10分足らずでバス停・博物館三十三間堂前に着く。そこでバスを降車すると京都国立博物館、道路を挟んで反対側には蓮華王院三十三間堂がみえる。蓮華王院は、今日、国宝建築として名高く、本学の学生のうちにも「行ったのは一度や二度ではない」という人も少なくなかろう。

梅原賢一郎(教員) 作曲家の細川俊夫さんをお招きし、第4回「芸術をめぐる(おいしい)お話の会」が東京(外苑キャンパス)で開催されました

秋たけなわ、11月11日、芸術学コース主催の第4回「芸術をめぐる(おいしい)お話の会」が東京(外苑キャンパス)で開催されました。東京でははじめての試みでした。他の複数のスクーリングとかさなり、日程としてはかならずしも最適でなかったかもしれませんが、用意した椅子を一列分補充し、なんとか皆さん、教室に入っていただくことができました。いつものように、お菓子を持参し、集まってきてくださった学生さんたちには、感謝いたします。 さて、ゲストには、現代作曲家の細川俊夫さんをお招きしました。細川さんは、ご紹介するまでもなく、世界的に有名な作曲家で、数多くの賞をすでに受賞なさっていますが、先だっても、作家の多和田葉子さんとともに、国際交流基金賞を受賞なさったところです。近年、能をオペラにする作品を数多く手がけられ、今回の勉強会でも、「能から新しいオペラへ」と題して、ご自身の作品「世阿弥の能によるオペラ《松風》」(2010)、「オペラ《海、静かな海》」(2015)を中心に、お話ししていただきました。能をヨーロッパで上演するには、予想されるいくつかの壁を突破しなければならないと思われますが、細川さんの深い洞察と強い信念が、静かな語りのなかからも、伝わってきました。

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じつは、細川さんと私は旧知の仲でして、はじめてお会いしたのは、細川さんが二十歳、ベルリン芸術大学に留学なさってたるときでした。京都に来られたときは、枕を並べて(比喩ではありません)、夜遅くまで、芸術の将来について、熱く議論したこと、昨日のことのように思い出します。 細川さんは、ヨーロッパ音楽という領域のなかで、日本(東洋)人の自分になにができるか、いろいろと格闘されていたように思います。たんに表面的な日本(東洋)らしさをを音楽のなかに織りまぜるのではなく、作曲原理において、何ができるかです。 そして、音の生成のちがいのようなものに着目されたように思います。つまり、ヨーロッパ音楽における音は、調性ならば調性という、いずれにしてもなんらかのシステムに従属した音(楽音)ということができます。その意味で、細川さんもいわれているように、「論理的な音」です。それにたいして、日本(東洋)の音は、一音一音が、生成から消滅までの生命をもっている。笛の音にしても、鼓の音にしても、地としての沈黙(無)から、まるで生命の誕生ででもあるかのように、音が立ちあがり、また、沈黙(無)へと沈んでいく。図と地ということであれば、むしろ、地が重要であって、図は一時的な仮の現象にしかすぎない。細川さんの音楽は、一貫して、そのような音の思想のもとで書かれていると思います。 一つ例をあげますと、早い時期の作品ですが、「ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための《断層》」(1984)という作品があります。これは、ステージの中央に、前から、ヴァイオリン、チェロ、ピアノと垂直に演奏者を配置するものでした。普通は、舞台に向かって、左にヴァイオリン、右にチェロ、後方にピアノですが、細川さんの指定にしますと、演奏者は、おたがいに顔も見ることも、視線をかわすこともできません。この作品において、細川さんは、ステージの因習的なポジションによって、ややもすれば引き起こされるであろうさまざまな夾雑物を洗い流し、いわば孤立した演奏者一人一人に、一音一音、音の生成に立ちあうことを強くもとめたことになるでしょう。 また、細川さんは、若いころから、作曲の原理を、洋の東西を問わず、いろいろな神話や哲学にももとめてこられたように思います。たとえば、曼荼羅の密教思想(「声明と雅楽アンサンブルのための《観想の種子-マンダラ》」など)や禅思想(音の生成そのものが禅的であるということができます)やヘシオドスなどの古代的な宇宙論(コスモロジー)などです。一つだけ例をあげますと、「笙ととハープのための《うつろひ》」(1986)という作品があります。これは、ハープ奏者が舞台の中央に座り、笙の演奏者はステージの脇から登場し、弧を描くようにステージをゆっくりと歩行し(笙の音は鳴ったまま)、また、他方の脇から退場していくというものです。細川さんによれば、吐いても吸っても音のでる笙は、恒久的な天体の運行をあらわし、心の襞にとどく繊細な音のハープは、人間をあらわしてるということです。これは、宇宙の原理と人間の原理が照応するするということで、古代の汎神論的な宇宙論(コスモロジー)に基づいていて書かれたということができるでしょう。 もう一つ、細川さんの作曲活動をずっと見わたしてみますと、魂の浄化(purification)、魂の昇華(sublimation)というのが、またべつのテーマとしてあげることができると思います。もっとも早い時期に書かれた、「ヴァイオリンのための《ウィンター・バード》」(1978)という作品があります。宮沢賢治の「よだか」を思わせるように、鳥が天空へと飛翔し、最後は、昇天していくかのようです。魂の浄化、魂の昇華、これは、《ヒロシマ・レクイエム》(1989/92)や「独唱者、朗読、混声合唱、テープとオーケストラのための《ヒロシマ・声なき声》」(1989)の作品の存在が示しているように、細川さんの出身地(広島)と関係しているとは思いますが、その当否はべつにして、細川さんの作品に一貫している、テーマということができます。

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そして、今回の勉強会で、映像をまじえて、お話しいただいた一連のオペラ作品です。《松風》にしても、男が去ったあとの、狂おしいほどの女の悲哀の情念が、最後は、静かに昇華していくように思われます。東日本大震災を題材とした、《海、静かな海》(平田オリザ演出、ハンブルク初演)にしても、被災した哀しみが、死者の黙せる哀しみも、生者の喪の哀しみも、最後は、「南無阿弥陀仏」の唱和のうちに昇華していく、作曲者の意図をそのように読むことができます。ドイツ人の声(たどたどしい発音)も日本人の声も、ともに、宇宙に融けこむ「南無阿弥陀仏」と聞こえたとき、私は思わず、目頭が熱くなってしまいました(念仏宗の信者ではありませんが)。 なにはともあれ、こうして勉強会が開催されましたこと、たいへん嬉しく思っています。旧交を温めるという意味でも、私にとって、ありがたい勉強会でした。思い思いのお菓子を持参して、集まっていただいた学生や卒業生のみなさま、ありがとうございました。「文化の秋」のいい一日でした。

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(梅原賢一郎)

佐藤 真理恵(教員)

イヴリン・ド・モーガン《トロイのヘレネー》(1898年)、ロンドン、ド・モーガン・センター蔵

【図1】イヴリン・ド・モーガン《トロイのヘレネー》(1898年)、ロンドン、ド・モーガン・センター蔵

 「世界三大美女」といえば、わが国に限っては、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町が挙げられることが多い。しかし、より一般的には、小野小町の代わりにヘレネーという女性がランクインしているようだ。  ヘレネーとは、ギリシア神話に登場する、絶世の美女との呼び声高い人物である。それほど有名な麗人であれば、さぞ多くの芸術家が美の化身としての彼女の像を創造し讃美したかと思いきや、意外なことに、とくに美術の分野では、ヘレネー像の数は決して多くない。しかも、美術作品や詩、演劇、映画で描き出された彼女の容貌や人物像は、概ね共通した特徴をそなえており、ヘレネーのイメージは多分に均一化されているといえる。後述するが、ヘレネーには、金髪たなびく絶世の美女にして稀代の悪女、という固定観念が付きまとっているのである。